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サーカスの歴史は古く、古代エジプト、ギリシャ、ローマ、ビザンチンではプロが演技

サーカスの語源はラテン語の「円」で、演技する円形面を意味する。
 サーカス芸術の歴史は古く、古代の労働、風俗や宗教の儀式にも関係があった。たとえば、東方諸国の職人が製造したロープの強度を試すため、その上を歩いたり、走ったり、ときには跳んだりもした。また、古代ペルシャでは、戦士が見張りをするため、戦友が支える棒によじ登った。果実から実を採るため、グラグラ揺れる梯子でバランスをとったり、樹から樹へ飛び移ったりもした。アフリカでは、戦士の教育に空中や地上での宙返りの動作が課題に加えられていたが、それがアクロバット、ジャンプに発展した。
古代のエジプト、ギリシャ、ローマ、ビザンチン等の国々でも、プロのサーカス・アーティストが演技していたことはよく知られている。古代ローマには楕円形の競馬場があって、二輪車の競馬が行われ、その合間にアクロバット、ジャグラー、グラジアの曲馬師などが出演していた。
11世紀




12世紀

13世紀
キエフ(11世紀)の聖ソフィア寺院の壁画には、半円形の劇場が描かれており、ここに拳闘士、楽士、棒を持った曲芸師が出演している。ヨーロッパでは、流浪芸人がサーカスの発展に特別な役割を演じた。フランスではジャグラー、ドイツは楽士、ロシアでは楽士兼役者などで、彼らは問答、コミカルな芝居、声帯模写などを演じ、楽器を奏でた。そして、彼らのこうしたプログラムにアクロバット、ジャグラー、動物たちの演技も加わるようになる。騎士の試合、いろいろな馬の競技なども、サーカス芸術の発展に大きな役割を果たした。
 12世紀にはイタリアをはじめ、ヨーロッパ諸国に乗馬学校が創立される。学校では教師が調教法や馬術を教えながら、模範的なレッスンを行った。ここで初めてサーカスアーティストの育成が始まり、高等馬術も普及していく。経験を積んだ曲馬師や調教師がひんぱんに公演を行うようになる。そして13世紀になると、もともと基本的にはスポーツの性格を帯びていた試合はコミックな要素を含んだ馬のバレーや祝祭へと変わっていく。
18世紀後半、モスクワとペテルベルグにサーカス館建設

1760


1770
1780



1780
 18世紀の60年代頃、ヨーロッパにPRAIS、DZHONSONといった有名な曲馬師がいた。そうした中の一人であるJAKOB・BEITSが1764年にモスクワ、1765年にペテルベルグで公演した。この公演には直径約13mの特別な円形舞台が必要だった。かくして、最初のサーカスの半常設館が出現することになる。BEITSは、こうしたサーカス館をモスクワとペテルブルグに建設した。
 1770年にはF・ASTLEIがロンドンに馬術学校を開き、1780年に半円形劇場を建て公演した。この公演には曲馬師、調教師、アクロバット、道化師の他、歴史的戦争を題材にパントマイムも含まれていた。ASTLEIの半円形劇場は世界初のサーカス常設館とされている。1782年に彼はパリにも常設館を建設。ここで、後にA・FRANKONIと息子たちのLORENTSO(LORAN)とANRIが公演をする。1807年にFRANKONIは、パリにオリンピックサーカスと称する建物を建てた。それまで、彼は自分の企業を半円形もしくは駒劇場と呼んでいたが、特権を与えられた者以外、劇場と称することを、ナポレオン一世が禁止したからだ。このため、FRANKONIの後に続いた他の企業家も自分の企業をサーカスと名付けはじめた。そしてこのサーカスは普及し、常設館も次々に建てられた。ウイン-BAKHA(1808)、ベルリン-RENTSA(1856)、アムステルダム-KALLE(1860)等々。
 また、この頃、こうした常設館だけではなく、FURRO、LUASSEといった巨大な移動サーカスの公演も行われていた。
19世紀前半はパントマイム、後半は道化師が人気でサーカスは一般民衆に浸透



1800

1820
1840









 ロシアではそうそうたる、また熟練したアーティストのいる一座が、18世紀の後半から常時公演していた。ロシアからいえば外国人になるCHIARINI(1803)、FINARDI(1818)などのサーカスが大成功を納めた。そして彼らは、ロシアに長期滞在し、ロシア人の弟子や同僚を自分達のサーカス団に加えた。ここに最初のロシア人アーティストが編成されることになる。
 1827年にはASTLEIの弟子たちの指導者のTURNIERによって、ロシアで初めての常設館がペテルベルグに開かれる。ただ、翌年この常設館は帝劇の管理部門に移行され、演劇とサーカスが交互に公演された。さらに1849年に国家がこの建物を没収し、サーカスは帝劇の管理部の下で統括された。サーカスは皇帝の権力の高揚と称讃のために利用されることになる。同年、ペテルブルグに新しい石造りの国立サーカス館がオープンしたが、幹部の官僚的な経営によって、赤字となり1854年に閉鎖された。
 モスクワと地方では、以前通り民営の円形舞台や架設で数多くの一座が公演していた。たとえば、APRAKSINの移動サーカスに農奴が出演していたことは有名で、サーカスは一般民衆に浸透していた。
 19世紀の前半期にはパントマイムが著しく発展した。フランスではFRANKONIサーカスの興業師たちがパントマイムの演出には特別に力を入れた。大部分は戦争のモチーフの筋書きで「ジャンヌ・ダルク」や「エジプトのナポレオン」などだった。また、虐げられた人間性の威厳、国民的、社会的な不平等への抗議などを、パントマイムで表現した。これは19世紀前半期のローマン主義に共通した方向だった。支配階級は、国家の英雄主義を鼓舞するためにパントマイムを利用したが、そうした演出は観客に受けなかった。
 ヨーロッパのサーカス番組の中で、男の曲馬、特に女の曲馬が中心的な役割を占めていた。高等馬術では、F・BOSHEがたいへん高度な技術を取得し、この演技に見世物的な優れた表現を加えた。女の曲馬師が馬のバレーを取り入れたり、馬上に立ったまま疾走したり、輪の中を跳び抜けたり、ジャグラーやグループによる曲馬なども行った。
 19世紀中頃には、道化が大きな発展を遂げた。1847年、ペテルブルグの演劇学校にサーカスのクラスが設けられた。19世紀後半期には、ヨーロッパのサーカス、ロシアも含めサーカスが一層広範に普及する。大都市ではサーカスの常設館が続々と建設された。モスクワ=GINNE(1866)、ペテルブルグ=CHINIZELLI(1877)、ベルリン=SHUMAN(1868)等。
サーカスは世界的に発展、新しい演技、プログラムが続々と登場


1850


 1859年、フランスでZH・LEOTARが最初の空中飛行を披露。このことでサーカスの天井の改革が要求され、天井は円い球状にに変わっていく。LEOTARに続いて他のアーティスト(ロシア人-P・NIKITIN)なども、空中飛行を演じるようになる。また、舞台では体操用具が頻繁に利用されるようになる。
 1873年、アメリカで興業師のT・BARNUMが、三つの舞台で同時に上演が進行する巨大な移動サーカスを設けた。1883年には、興行主で俳優のBUFFALO BILLがサーカス館「未開の西部」を創立した。
 サーカス芸術はアジア、アフリカ諸国でも発展した。中国サーカスは古典劇と密接な関係をもち、ユニークなジャンルのものが公演された。日本のアーティストは傾斜しているロープの上での昇降、たいへん高い所に吊された竹の上での体操。仰向けのアーティストの足の裏に支えられた梯子の上のアクロバットなどを披露した。コーカサスではジキトと綱渡りが盛んで、ロシアではあらゆるジャンルに一流の演技者が輩出した。私営の大劇場が創られ、主としてロシア人のアーティストが出演していた。舞台ではますます頻繁にジキト(ALI-BEKKANTEMPLOV等々)が観られるようになった。曲馬師が馬上で逆宙返りなどを披露していた。
 同じ1859年、ナイヤガラの上にロープを張り、渡ったBLONDENの技は、綱渡りの中でも卓越していた。20世紀には在来の麻のロープがワイヤロープに代わり、これによって複雑なトリックができるようになる。
 サーカスに猛獣が出演するようになったのは19世紀の前期からだ。フランスのFRANKONIのサーカスでは、その頃ライオンや虎が出演していた。70年代まで猛獣が舞台に登場することは珍しいことだった。背景には野獣の取引が儲かる事業だったため、これの調教の試みが広まった。ハンブルグのK・HAGENBEK商会は、動物類を動物園に売りながら、サーカスのために調教の準備を行った。そして、彼は1887年に最初の動物サーカスを創立する。この頃、ロシアでもI・FILATOVなどの猛獣使いが輩出しはじめる。こうした猛獣使いの中に、1933年に来日し公演をした名支配人R・SAVADEがいた。
  初代のDUROV(道化師、調教師、貴族出身)ファミリーの芸術が道化の発展に大きな役割を果たした。DUROV兄弟のジョークは帝政ロシアの警察や官僚に対する辛辣な風刺が込められていた。V・DUROV(1863〜1934)は、人道的かつ科学的な動物調教法を開発した。若干の道化師たちは楽器の演奏やコメディ風なジョークを組み合わせた演技を行っていた。
世界のサーカスが観客の大入りを狙う“アトラクション”に向かうが、連邦サーカスは“美”を大切にした芸術性をめざす




1890








1900
 19世紀末から20世紀の初めにかけてパリ、ベルリン、ペテルブルグ、モスクワなどの大都市に石造りのサーカス常設館が建てられた。そしてこの頃から「アトラクション」という概念が現れる。言いかえれば、大入りの成功を納めている番組を中心に編成した催物だ。
 最初のアトラクションは、ベルギー人のZH・NUAZETTによって行われた。彼は大円形の籠の内壁に沿って自転車で走り回った。
 サーカスの番組もあらゆるジャンルのものが加わるようになる。サーカスの大きな成果にもかかわらず、19世紀末には危機な兆候が現れる。そのため舞台には人々の気を引くために、ますます頻繁に卑しい粗野な演じ物が現れ、バラエティ・ショウから俗悪なエロ的要素が浸入した。
 ロシアでは、革命前のサーカスの舞台ではレスリングが大きな位置を占めていた。
世界最強のレスラーと互角に勝負した卓越したロシアの名手I・PODDUBNY(1870〜1949)、I・ZAIKIN(1880〜1948)たちは、革命後にはサーカスのアーティストとしてソビエトの芸術活動家と肩を並べる名誉ある地位を得た。ソビエトでは、ブルジョアの俗悪なものは浄化され、肉体美を大いに誇示すべきと言われていた。また、サーカスは教育人民委員部(後の教育省)に属していて、詩人のV・MAJAKOVSKII(1893〜1930)も殊更サーカスに魅せられていたように、ひとつの文化として認知されていた。
 美術監督のB・ERDEMAN(1899〜1960)が舞台衣装を創作したが、後に役のデザインがサーカス史に残った。市民戦争時代(1918〜1920)にTANTI兄弟らの活躍が目立ち、工場で公演したり、戦線に慰問したりしていた。しかし、この時代国営のサーカスは破綻を来し、調教した動物、衣裳、大小道具類はすっかり消滅していた。このため国家は資金不足のためサーカス館の多くを私営のサーカス団に賃貸した。そうした背景もあり、1922〜1929年、多くの外国人アーティストがソビエト・サーカスの舞台に出演した。スポーツマンS・MOROZOV(1905〜1978)、A.&M.白井らがサーカスに魅せられ応援する。
 サーカスの管理部は新しい公演の準備をしているアーティストに物質的援助を行うようになり、1926年にはモスクワ、1930年にはレニングラードにサーカスの芸術工房が創立される。最大のサーカス館に美術監督K・KRASNJANSKII(モスクワ1891〜?)E・KUZNETOSOV(レニングラード1900〜1958)が任命された。この頃のソビエト・サーカスの基本的課題は人間の美と勇敢であった。演技の中で力を入れられたのが、歴史的なまた現代の筋を題材とするパントマイムで、具体的な例をあげれば、子供向けパントマイム「せむしの仔馬」(1935年)等々。
 この時代は才能あるアーティスト・グループが多く登場する。風刺的な演技では、道化師が、身近な現代性のある人間像を創り出した。特に大成功を納めたのが、KARANDASH(1901〜?)K・BERMAN(1914〜 )等だった。
各ジャンルでで才能あるアーティスト達が活躍。ロシア国立ボリショイサーカス誕生

 ところが祖国大戦争(第2次世界大戦)勃発で、再度転機を迎えることになる。開戦早々大部分のサーカスのアーティストが戦線の隊列に加わった。それでも、レニングラードでは戦線慰問サーカス団が結成され、E・GERSHUNI監督(1899〜1970)の指揮下に、移動サーカスが続けられ、病院や工場でも公演された。
 内容もファシズム、侵略者、裏切り者を弾劾する鋭い風刺のものが上演され、斬新な演技も増え、各ジャンルに才能のある次のようなアーティストが誕生した。
 ソビエト連邦で、1940年から70年にかけて数多くの都市に、新しい設備の整ったサーカス館が建設され、1971年にはいままでにない新サーカス館も誕生する。そして、サーカス常設館61、移動サーカス15、動物サーカス13、氷上サーカス2、水上サーカス、レビューサーカス等が、1978年ソビエト連邦サーカス公団に所属した。
 国立演劇大学には、アーティストや指導者を教育する機関も充実しており、モスクワ国立サーカス・バラエティ芸術学校のほか、他の諸都市の教育施設でサーカスのアーティストを育成している。1966年にサーカス監督課(指導者MESTECHKIN)、1973年にサーカス講座(講座主任F・BARDIAN)が開設された。
 出版物も、1957年10月から「ソビエトサーカス」が、1963年7月から「ソビエトバラエティショーとサーカス」が発行された。1976年に「芸術」の発行元出版社に、バラエティショーとサーカスの特別編集部がつくられた。





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